2019年01月28日

藤枝文学舎 寄稿記事より

「はじめに言葉ありき」
~小川国夫さんの遺したもの~
                           佐野 愛子

「はじめに言葉ありき」
私の耳にどこからか鳴り響いてくるなじみの言葉。
「そうだよね、やっぱり言葉だよね。」と妙に納得したり、「いや、言葉より先に大切な行動があってこそ真実だよ。」と疑ってみたり。
私の60数年の人生、絶えずそんな俗なことの繰り返しだったような気がする・・・。

今から40年も前、静大生だった私は大した目的を持つこともできず悶々と学生生活を送っていた。卒業論文を書かなければならなくなった時、親しみのある地元の作家、小川国夫さんを何となく選んだということからご縁が始まった。
滝ノ谷不動峡では、多くの中央の芸術家さんたちとの出会いがあった。彫刻家、画家、作家、批評家、デザイナー、工芸家、詩人、映画監督、ミュージシャン、演劇人、などなど、一人ひとりの顔が浮かんでくる。
小川さんには「焼津平安閣」で挙げた私の結婚式に来ていただき、来賓としてご挨拶までお願いした。画家の司修さんには「祝婚歌」という詩集を頂いた。
ちょっと、甘酸っぱい青春の思い出である。

「言葉」の話に戻そう。小川さんがこだわった「文体」。
「文体とはなにか。」それも私の人生のテーマであった。というか、「言葉」を乗り越え「文体」となると、自分の思考そのもの、生き方そのものになってしまうではないか。小川さん独特の、イメージを抽象化してそのまま文章にした飾り気のない文体。決してなめらかとはいえない、すべてを削ぎ落したボツボツとした文体。それに比べて私は、美辞麗句、受けねらいの人生を送ってしまったのではないか。若かりし頃の小川さんに傾倒した感性はどこへ行ってしまったのか、と若干、自虐的にもなる。

いや、そんなことはない。私の生き方はやはり「はじめに言葉ありき」。「言葉」がすべてだったではないか。信じられるのは「言葉」だけで「絵画」も「映像」も「アニメ」も私の眼には映ってこない。「文字」や「活字」で表される「言葉」だけが真実。そして、自信をもって主張できる「言葉は光」だと。

そういえば、あまりにお粗末な私の卒業論文は、小川さんに読んでいただくという約束を果たすことなく封印されたままどこかへいってしまった。

もうじき冬になって晴れた風の強い日があったら、大井川の河口に行ってみようと思う。駿河湾の陽の光を受けて、「はじめに言葉ありき」「言葉は光」を改めて確認してこようと思う。






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